愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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118第3部 法文学部の現在と未来 社会からの声 法文学部が創立50周年を迎えられましたことを心よりお慶び申し上げます。1968(昭和43)年4月に文理学部の改組が行なわれ、 法文学部が設置されてから50年、 感無量です。 私は1968年3月に文理学部を卒業いたしました16期生の一人です。卒業して50年経ったのかと格別な感慨が起こります。 そして法文学部の船出は決して楽なものではなかっただろうと、当時の国文研究室の先生方のご苦労が思い返されます。『万葉集』『源氏物語』の武智雅一先生、中世連歌論、正岡子規研究の和田茂樹先生、江戸文学の土田衛先生、国語学の吉田金彦先生、漢文学の中島千秋先生、非常に厳しく、妥協を許さず、そして温かかった先生方。 68年、69年、70年と学生運動は次第に熾烈になり地方の愛媛大学にもその波が押し寄せていました。71年、72年はその余波が学内にくすぶっていた時代でした。 私は、国文学の研究の奥深さに魅かれ、先生方の後押しを得て、大阪市立大学大学院に進学いたしました。大阪市大ではすぐに大学紛争が起きました。当時のことを思い返しますと、大波に巻き込まれて何度もおぼれかけながら、只々研究を続けたい、学びたいという一念にしがみついてやっと泳ぎ切ったという感じでした。支えて下さったのは愛媛大学の国文の先生方でした。長期休みだけではなく困ったときには松山へ舞い戻ってその懐に飛び込みました。研究室へ行くのにバリケードで封鎖された学舎の傍を通り抜けました。 この時期に、私は先生方と新しい出会いをすることができました。第二次世界大戦の戦時下で学生を教え続け、送り出した先生方、また戦火をくぐって生還し大学に学生として帰って来た先生方、胸の奥に重い重いものを抱えていらっしゃる先生方に出会えました。大阪市大にも愛媛大学にもいらっしゃいました。それは、学ぶことに命を懸ける、ゆるぎない信念となっていたように思います。そしてその信念は頑として譲らない頑固となっていました。揺れる先生方があまりに多かった中で、数少ない頑固は光っていました。私の知っている国文研究室は頑固の塊でした。 わたしは、学問を学ぶだけでなく、学問に関わる姿勢、人間としての在り方こそ最も大切なものだということを学ぶことができました。逃げない、正面から受けて立つ、保身に走らない、年若い学生の青いと思われる言葉にも耳を傾けることを厭わない、信念ある頑固者、このような存在が重石として日々の生活の中にも必要だと、どの時代にも必要だと身をもって知った時期でした。 ふっと我に返らせてくれる一言を発する人が要るのです。人は愚かではありません。試行錯誤をしながらも良き方向へ進んでいると信じたい。2017年にやっと「水銀に関する水俣法」が世界50か国の賛同を得て採択されました。発生から60年、公害問題として噴出したのはちょうど法文学部が創立された50年余り前のことでした。どれだけの人が中傷と差別の中で無念の死に倒れたことでしょう。しかし、発し続けたN0の言葉が「水俣条約」を成立させました。このように時代を覚醒させる言葉は発し続ける必要があります。目先法文学部の存在意義について松山市立子規記念博物館館長 竹田 美喜

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