愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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61Ehime University Faculty of Law and Letters 50thして,成績によっては希望通りに行かないことがあると聞いていました。私は東洋史の牧野先生の研究室を選んだのですが,何と他に誰も居ないのです。 とても厳しい先生だとの噂は聞いていましたが,一人しか希望していないとは思いませんでした。結局のところ二人にはなったのですが,先輩も半年で居なくなり,後輩も誰も入ってこないので,毎週月曜午後のゼミは,牧野先生を含めて三人という状態が卒業まで続きました。 私が希望して配属された牧野ゼミですが,一言で言って地獄でした。元典章(大元聖政国朝典章)を輪読していくというものなのですが,高校時代に漢文は得意なつもりだった私ですが,全く読めません,というか何が書いてあるかさえ分からない代物で,半年は先輩が居たので,なんとか凌げましたが,その後は2週間(二人なので一週おき)の殆どの時間を費やして字源や大漢和辞典での単語調べや参考文献調査に充てても1頁も進まない。しかもゼミの最初にやっと解読したつもりの1頁を発表しても牧野先生の一言「ダメです,そうは読めません」で撃沈,午後1時に始まったゼミは午後8時になっても終わらず,午後9時頃に牧野先生の「来週にしようか」でようやく終了。 この7~8時間の間,殆ど会話は無く,約1時間おきの「この解釈でどうでしょう?」,「そうは読めません」が延々と繰り返されるだけ,まさに地獄に相応しい風景でした。 しかしながら,これまでの人生(60年余)で,ここまで緻密に真剣で真摯に妥協しないで物事に向かい合うという貴重な経験は他にはありませんでした。また,大学の中でも文学科という所でなければ,ここまで非生産的な活動は許されないだろうなと思います。 何時も地獄に居たのかと言われれば,それだけではありません。NHK松山放送局(当時は四国本部)のアルバイトで普段は入れない場所に行けたり,卒論研究の資料探しに東京大学の図書館に籠もったりした楽しい経験や甘酸っぱい恋愛経験も一杯ありましたので,ご安心ください。 卒業後は,そのまま国家公務員として愛媛大学事務職員に採用され,現在に至っています。大学でのキャリヤは,教務事務や入試事務を約20年間,大型計算機を使った教務システム,入試システムのプログラム開発や情報基盤システム,学内ネットワークの整備などに約20年間であり,学生時代の研究経験(まねごとですが)が実務に役立ったか,と問われれば,何の役にも立たなかったと答えることになりますが,そんなものを超越した真剣で真摯に妥協しないで物事に向かい合うという姿勢だけは,大学時代が与えてくれた何物にも代えがたい宝物だと断言でき,牧野先生やゼミ仲間の川上君には感謝の言葉しかありません。 最後にブラタモリ松山編に戻りますが,タモリさんが持田界隈の廃線跡に建つ変わった敷地の家屋を訪ねていましたが,もう一カ所,大学のすぐ近くにもありますので,紹介しておきます。理学部北側の樋又稲荷神社の西隣にある家屋ですが,とても違和感のある敷地に建っています。その敷地を東南方向に延ばすと県道20号線(通称,貧乏通)に出てくる妙なカーブをした道に繋がり,その道を東に進むと現在の道後温泉駅の北側に向かいます。残念ながら途中で途切れますが,廃線跡としか見えません。興味のある物好きな方は,訪ねられたら面白いと思います。唯一のゼミ仲間・川上君と図書館前庭にて(1978年11月頃)

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