愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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30第1部 法文学部50年史来の哲学、心理学、社会学、言語学、地理学、考古学がこれにあたり、人間科学論と環境行動論という二つの大学科目(実験)がおかれ、積極的にフィールドワークを取り入れることが謳われていた。 いま一つの「地域言語文化学科」では、日本文化論、東洋文化論、ヨーロッパ文化論、英米文化論、国際言語コミュニケーション論の5大学科目が設置され、国際化に対応すべく、外国語の習得とその背景たる歴史、思想、文化などをトータルに学ぶというのがコンセプトであった。これら4学科案はのちの2学科と多くの点で共通しているものの、4学科案のときには、まだ学部全体での履修や相互乗り入れといったことは特に意識されていなかった。むしろ複合学部として各専門領域の深化が改革の方向として打ち出されていた。 しかし1994(平成6)年11月29日に行われた文部省との協議において、この4学科案には複数の厳しい意見が寄せられた。文部省からは、法文学部の複数学部への独立が不可能になったとの発言に加え、文部省側は法文学部が総合学部であるとの認識を持っており、この改革案が既設学科内部の改革と分割に過ぎないと指摘された。一方で、各学科の卒業生の就職先に殆ど違いがないことから、学部レベルでは専門化よりも高度の一般化を目指すべきだとされた。また「文学部では、哲・史・文の学科を取り払う大学も出て来たが、文学部は一学科にし易いのかもしれない」10)との意見も示された。さらに地域のニーズに応えることと、アジアに関する科目の導入が求められた。 ところで、当時同じく改組案を練っていた工学部についても、「大学全体の改革の方向は、学科集約の方向で進んでいるが、工学部は分散の方向になっており、整合性がとれないのでは」11)とあり、他の学部でも新規学科開設ではなく、集約・統合が示唆されていた。こうして文部省の意向としては、学科の増加ではなく統合であり、人文・社会科学系の総合学部として「学科にこだわらない意欲的な改革」が求められていることが明らかになった。 年が明けて、1995(平成7)年1月17日に、再び文部省で新たな改組案について打ち合わせが行われた。この日の未明に阪神・淡路大震災が起き、溝口学部長が加古川に足止めされたため、各学科の改組委員が代役として説明するという事態も起きた。ここで、「総合政策学科」と「人間文化学科」の2学科に改組し、大学院は、法学研究科の法学専攻を政策文化科学研究科政策科学専攻及び文化科学専攻に拡充整備する旨が報告された。その後、幾度かの修正と打ち合わせの作業を経て、2学科案の中身が固まっていった(「人間文化学科」の名称は、すでに松山東雲女子大学で用いられ

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