愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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32第1部 法文学部50年史 こうして改組案は4学科案から2学科案へと形を整えていったが、学部全体に対して4学科案で求められた「人文・社会科学系の総合学部としての学科を越えた意欲的な改革」については、2学科案でもどちらかといえば及び腰であった。当初の2学科案に対して文部省からは、「総合政策学科と人間文化学科のつながりは、もっと考えられないのか」13)、学部としての目玉はないのか、と直截な言葉があった。これに対して、学科間の相互履修が打ち出され、それによって「総合政策の学生は文化的心性とコミュニケーション能力、人文学科の学生は現実的な視点と円満な社会常識を培う」とされた。 もっとも、当時の大学院拡充資料によると、学部の自己認識は「法文学部は、法学科、経済学科及び文学科の3学科からなる複合学部」であり、文部省の総合学部という認識とは齟齬をきたしていた。2学科案となって総合学部としての側面が垣間見えたが、しかし総合政策学科と人文学科の関係については複合学部としての側面が濃厚であり、のちには「2学部」時代と形容できるほどであった。つまり、2学科制への移行は、文部省側の総合学部化への要請と学部側の複合学部という認識との角逐と妥協の産物であったともいえる。2学科時代の動き4)大学院法文学研究科の設置と法文学専攻科の廃止 1981(昭和56)年に法学研究科修士課程が設置されて以降、大学院の拡充が課題となっており、経済学科と文学科も研究科を設置すべく動いてきた。しかし1987(昭和62)年の概算要求において、「文学科を基盤とする『人文科学研究科設置計画書』を作成し、数次にわたる本省での協議をおこなったが、1学部1研究科を原則とするということで、実現に至らなかった」14)。ここで大学院においては、いわば学部の総合学部化に先行する形で改組計画が練られていくことになり、「いかなる総合的研究科が可能であり、かつ社会的要請に応えることができるか」について、研究科や3学科間で議論を重ねていくことになった。ここで「大綱化」が登場し、大学院改革は、すでにみた教養部の廃止と学部改組の議論に続いていくことになった。 そこで検討されたのが、「本学部に教養部教官を大量に取り込み、従来の法学科・経済学科・文学科の3学科を融合再分割して、新しい学科を設ける改組計画案」であった。まず、1992(平成4)年の改組計画では法学研究科を拡充して「文化科学研究科」

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