50第2部 法文学部の思い出 卒業生の声学生の頃を思い出してみると……1973(昭和48)年 法学科卒 宇都宮 眞由美1.入学まで 1949(昭和24)年生まれである。いわゆる「団塊の世代」の最後の年齢であり、どこに行っても同級生でいっぱいだった。小学校から高校まで、クラスの人数は常に50名を超え、教室からはみ出しそうなくらい生徒がいた。先生もさぞかし大変であったろう。昨今「学級崩壊」などという現象を聞くたび、当時の先生がよくクラスをまとめることができたものだと感心する。 「団塊の世代」はいつも大勢の人の中で成長してきた。遊ぶのも勉強するのも周りに人がいることが当たり前の時代だった。自らに生まれる時代の選択はできないが、育った時代環境は私の人間形成に大きな影響を及ぼしていることと思う。2.入学の頃 1969(昭和44)年、一浪後やっと愛媛大学法文学部法学科に入学した。この頃、日本はいわゆる「高度成長期」で、日本の国全体が自信に溢れ、活気に満ち溢れていた。学生たちも同じである。若さは常に大きなエネルギーをはらんでいるものではあるが、当時の学生たちのエネルギーは、数のせいかもしれないが、今の学生たちとは比較にならないほど大きかったような気がする。 当時、全国的にそのエネルギーが爆発し、東京大学をはじめ、各地で「大学紛争」が起こっていた。ちなみに、1969(昭和44)年は大学紛争のために東京大学の入学試験が行われなかった年である。愛媛大学においても例外ではなかった。私たちの入学後半年間、講義は全く開かれなかった。大学の門前には何枚もの「立て看」が立ち並び、独特の字、独特の語り口で、「いかにこの国の政治がダメであるか」ということや「若者の力で政治を変えなければならない」というようなことが書かれていた。しかし、「どのようにして変えるのか」というような具体的な提案などは書かれていなかったような気がする。何か「革命」への呼びかけのようなもので、私には現実的なものとは思えなかった。 私たちは大勢の人たちに囲まれて成長してきた。その中で大人たちの生き方を見、話を聞き、また学校では人や社会のあるべき姿を学ぶ中で、社会における矛盾や理不尽さを感じていった。このような不安定な感情が、若者が持つエネルギーの中で増殖され、「大人」になりきる前の最後の瞬間に一挙に爆発したような気がする。3.卒業するまで 幸か不幸か、当時の私にはさほどのエネルギーはなかったようである。社会の矛盾や不合理に対する知識や経験もさほどなかった。人と話すことがあまり得意ではなかったし、社会に対する興味もあまりなかったようである。休講になったのをいいことに、バイトをしたり、本を読んだり、退屈することもなく楽しい時間を過ごした。特に何かに夢中になった記憶はない。 半年後に講義が開始され、高校までの授業と同じような感覚で受けた。積極的に何かを勉強しようという意欲はなかった気がする。アルバイトをしたり、友人と泊りがけの旅行やキャンプをするなど、少し大人になった気分も味わっ
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