愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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52第2部 法文学部の思い出 卒業生の声学生時代の思い出と今 それは私の宝物1973(昭和48)年 法学科卒 西田 和眞(1)プロフィール 私は1969(昭和44)年入学の法文学部第2期生です。大学卒業後は国税専門官として国税の職場を勤めあげ、現在は第2の人生として税理士事務所を開業しています。 法文学部との係わりは、2009(平成21)年の松山での最後の勤務時に、現在の法文学部同窓会の小池会長から「卒業したら同窓会を手伝ってもらえないか」とのお声を掛けていただいたことがきっかけで、以来、同窓会のお手伝いをすることになり、現在は副会長として主に同窓会報の編集を担当しています。 法文学部同窓会提供講座では、卒業生の若い国税調査官と一緒に講義を担当したこともありますし、各方面で活躍している卒業生の方々の貴重な体験を含んだ示唆に富んだ講義を聴けることもあり、講義にはできるだけ出席するようにしています。(2)学生時代の思い出 在学中は大学紛争真っただ中で、入学直後の前期は講義も通常どおりでしたが、後期になると教養館が封鎖され、その後、法文館も封鎖されたことから講義はほとんどなく、試験もレポートが多かったような気がします。このため、勉学にいそしんだ記憶はなく、社会人になってから大いに反省することになりました。 では、大学でいったい何をしていたのか。今思えばサークル活動にのめり込んでいったようです。高校の先輩の声掛けで、誕生まもない「ハイキングクラブ」に入部しました。クラブを作ったのは最後の人文乙の人が多く、クラブ第2期生も法文学部の人が多かったようです。 サークルは名前のとおり、山あり、里あり、海ありでとにかく歩くということでした。四国を中心に全国各地に出かけて行きました。サークルの名前のイメージが少し軽かったせいか、4年目には部員80名を超える大所帯となり、しかも女性が多いのが特徴的でした。 ただ、サークルとしては既に同じようなものがあるということで体連にも文連にも加入が認められず、長年同好会として過ごしておりました。このため、部室がなく、やむなく、平和通り交差点の一角にあった一階が喫茶「みち草」の建物の2階の一室を借りて部室とし、その後、市内を転々としたようです。 入学した年の夏休み、東京の大学に行った高校の友人と二人でテント泊の石鎚山系縦走をしました。当時は石鎚スカイラインもなく、バスを乗り継ぎ面河から一日がかりで石鎚山に登りました。現在、手軽な登山口としてにぎわって皿が嶺での新歓合宿(1972年4月)卒業式の日に法文館前にて(1973年3月)

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