54第2部 法文学部の思い出 卒業生の声愛媛大学の思い出1974(昭和49)年 法学科卒 久保 泰敏はじめに 法文学部創立50周年、おめでとうございます。 振り返ってみると、学生として4年、事務職員として38年、非常勤職員として6年、愛媛大学に関わってきて、法文学部に限っても20年以上のお付き合いがありますので、感慨深いものがあります。学生紛争の影響 1970(昭和45)年には過激派の学生に建物が封鎖されていたため、入学試験も実施できず、試験会場は県立松山東高等学校でした。妨害を防ぐために出動した機動隊のジュラルミンの盾でできた林をくぐり抜けた記憶があります。 入学した当時、法文学部旧本館(現在の共通講義棟B)の教室は、とても授業が行えるような状態ではありませんでした。 構内ではヘルメットに手ぬぐいでマスクをした学生のデモがシュプレヒコールを繰り返し、正門の横には待機する警察官の姿もありました。活動の場は学外 ~バイトとバイクとボウリング~ そんな状況でしたから、講義をレポート提出で代えるという授業が多く、ノンポリの私は大学よりも大学の外で、所謂「社会勉強」に明け暮れるようになりました。 喫茶店でのアルバイトは4回生まで続き、コミュニケーション形成の原動力になりましたし、高校の同級生(教育学部)に手ほどきを受けたオートバイは「出藍の誉れ」と言うべきか、後に指導員にまでなりました。また、下宿の先輩に教わったボウリングやアイススケートも通い詰めて、そこそこ上達しました。しそびれた就職活動 しかし、不真面目な学生であった私は「就職活動」を一切していませんでした。 4回生になって周りが内定の話をし出してから、就活しそびれたことを知ったのです。慌てて法文の学務係(当時、就職支援課はありませんでした)に泣きつきましたが時すでに遅し。民間企業は残っておらず、出願締め切り間近の国家公務員採用試験が残るのみで、滑り込みセーフ。何とか合格し、奇跡的に卒業もできました。 就職先に愛媛大学を選んだのは、単純な理由でした。 父が警察官だったことで、転校が多く、自分の子ども達には絶対つらい思いをさせたくないという信念があり、校区を移動しないで済むというのが最大の動機です。 母校である本学の法文学部に採用していただいたのは1974(昭和49)年、22才の春でした。大学職員になって ~バイクとスポーツ~ 学生と教職員のバイク乗りに呼びかけて「セーフティクラブまつやま」を設立したのは1984(昭和59)年のことでした。ホンダ安全運転普及指導員の資格も取り、当時理事を務めていた愛大生協に協力をお願いして「CO-OPセーフティライダースクール」を主催しました。 スポーツの方は、ソフトバレーボールが普及し始めてその楽しさを知り、教職員のレクバレー愛好会を作り、大きな輪が広がりました。 2002(平成14)年に出場した松山地区国家公務員バレーボール大会で優勝を飾ることがで
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