愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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67Ehime University Faculty of Law and Letters 50thた。ところが台湾に行ってから、「もう一人博士を紹介してくれないか」と頼まれました。その時、私の脳裏にはすぐにあの先輩が浮かんできました。ちょうど先輩は博士の学位を取得したばかりだったのです。日本の大学で非常勤講師をやることになっていた先輩を説得し、台湾に来てもらうことにしました。台湾にやってきた先輩は、開口一番「またお前の道連れになったな」と言いました。 台湾の大学では、2年半にわたってともに教員として働きました。慣れない異国での習慣、また私自身の性格もあって、私はしばしばトラブルを起こしてしまいました。その都度、先輩が間に立って解決してくれました。台湾で何とかやっていけたのは、まさに先輩がいてくれたお陰です。 結局2年半後に私は帰国することになり、先輩もその半年後には「道連れ」になるように帰国しました。私は新たな職場で教員として働き始めましたが、先輩がそばにいないことが寂しくて、しょっちゅう電話をかけていました。先輩もまた、私のわがままによく付き合ってくれました。 その後、先輩が結婚したり、私が現在の山形へ移ったりして、だんだんと疎遠になってしまったのですが、次の接点は科研費(科学研究費)による共同研究でした。私は日本語と台湾語との対照研究、また台湾における日本語教育を研究テーマに選んだのですが、その共同研究者として、先輩はまさにうってつけの人物だったのです。科研費が採択されると、先輩との交流が復活しました。また先輩を「道連れ」にしてしまったわけです。 先輩は大学教員の職に就き、また子どももできたのですが、台湾に共同調査に行った時には、学生の頃のように無邪気になりました。「先輩は変わらないなあ」ということで、むしろこちらがうれしくなりました。私も先輩といっしょにいる時は、何だか初心に返ることができるような気がします。 私自身も今は学生を指導する身ですが、今の学生たちを見ていると、私と先輩もかつてはこんな感じだったのかなあ、なんて思ったりもします。また、清水先生は、実は私たちに手を焼いていたんだなあ、と今になって反省したりもします。 最近私は、日本と台湾とのさらなる交流の深化を目指して、新たなシンクタンクを設立しました。それには当然のことながら、先輩にも参加してもらいました。まだ始まったばかりの試みで、右往左往している状態ではありますが、先輩とともに未来を見据えてがんばっていきたいと思います。 かつて「清水先生のような大学教員になりたい」と思って大学院に進学したのですが、そこからはいろんな「寄り道」をしました。もちろん順風満帆などではなく、嫌な思いもたくさんしました。が、そのお陰で私にはいろんなコンテンツが備わったような気がします。台湾研究や台湾との交流は、その最たるものです。そして、その傍らにはいつもあの先輩がいました。その先輩とは、『日本書紀』研究では新進気鋭の学者・是澤範三氏(京都精華大学)です。是澤範三先輩と台湾にて(2002年4月1日)

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