愛媛大学法文学部 創立50周年記念誌
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89Ehime University Faculty of Law and Letters 50thたら具現化することができるのか、そのことに頭を悩ませました。なぜかと言えば、企業がイメージする「人材」(manpower)にとらわれれば、ヒト、モノ、カネが同等の価値を有するかぎり、ヒト(人的資源)は、場合によっては容易にモノ(物的資源)に置き換えられてしまうからです。言うまでもなく、ヒトは決してモノではありません。これは、私が重視する「教養」ないしは「人間であること」(manhood)とは、まったく矛盾する考え方でした。 最初に書きましたように、私は古希を迎えました。現在の私がおかれている状況は、上記「人材育成」の観点からすれば、退職したがゆえに私はもはや人的資源たりえず、モノないしカネと同等の価値も有してはいません。そうであるならば、私にはもう、存在する価値などないのでしょうか。私が「生きる」意味を見出そうとするならば、どうやら価値観の転換が必要なようです。 確かに人間は、「全体」である社会の一員として、まさにその「部分」であるという自覚(社会的自覚)をもって生きています。しかし忘れてならないのは、人間は一方で、みずからが「全体」として存在している、ということです。一方で社会のために「人的資源」(manpower)として生きながら、人間は他方で自分のために存在しているわけです。「人間であること」(manhood)とは、そのことを指します。自分のために生きるとは、自らが人生の主人公になるということであり、「人間の尊厳」とも言い換えることができます。 ここで大事なのは、「人間であること」(manhood)と「人的資源」(manpower)の間のバランスです。そのバランスは、自分がこの世に存在することはそれだけで価値に満ちていることを自覚しつつ、社会に貢献できるような生き方を工夫することで可能になります。「人材育成」にかかわらせれば、その背景に「人間であること」あるいは「人間の尊厳」が控えていないかぎり、人間を物と同じように材料として処遇する過ちを犯しかねない、ということです。 「人材育成」が表に出れば出るほど、必要になるのが「人間であること」にかかわる教育です。紙数の関係で詳しいことは述べられませんが、もともと大学というのは、歴史的にはリベラル・アーツ(自由七科)──単純化して言えば「教養」──から出発してきたものです。この伝統を現在に至るまで体現してきたのが、私が法文学部で従事してきた人文学(フマニタス)にほかなりません。 古希を迎えて、もはや人的資源たりえなくなった私が、法文学部の教育に切に期待するのは、「人材育成」と同時に、この「人文学」の充実です。両輪相まってこそ、みずから生き方の指針を定めることのできる有意な人材が巣立っていくのだ、と私は考えます。法文学部同窓会東京章光会の総会で講演する黒木幹夫法文学部長(平成24年7月21日)

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