野村優子「「我々はどこへ漂いゆくのか」Wohin treiben wir? ──ジークフリート・ビングとユーリウス・マイアー=グレーフェ──」

世紀末パリの日本美術ブームを牽引した日本美術商ジークフリート・ビング(1838-1905)は、優美な曲線を持つ装飾様式「アール・ヌーヴォー」の生みの親でもあります。ハンブルク出身の彼が当時パリで行動を共にしたのはドイツ人美術批評家ユーリウス・マイアー=グレーフェ(1867-1935)です。ビングはマイアー=グレーフェが編集を務める雑誌『装飾芸術』に、「我々はどこへ漂いゆくのか」(1897年)と題する文章を寄稿しています。一方、マイアー=グレーフェも書籍『我々はどこへ向かうのか』(1913年)を出版しました。なぜ、彼はビングの執筆から16年後に、同じタイトルを持つ論考を執筆したのでしょうか。『九州ドイツ文学』第36号(2022年)に発表した本論考では、二人の同時代芸術論の比較を通じてこの答えを導きだすとともに、当時の芸術界が置かれた状況を明らかにしています。

まず第一章では、二人の結びつきを、ベルギー人建築家アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデ(1863-1957)との関係を交えて追いかけました。マイアー=グレーフェはビングの店「アール・ヌーヴォー」の芸術顧問として活動しつつ、美術工芸に関する論考を二つ執筆しています。第二章では、それらの内容を見ることで、ビングの意図を代弁した美術工芸に対する思想や、そこに「我々はどこへ漂いゆくのか」の言葉がすでに見られることが判明しました。続く第三章ではビングの論考を精査し、彼の未来の美術工芸に向けての提言がどのようなものだったかを確認し、最終章ではマイアー=グレーフェの論考と1910年代の状況を照らし合わせ、彼の心境の変化とここにビングと同じタイトルを採用した理由を導き出しました。

結果、「我々はどこへ漂いゆくのか」という言葉は、当時最新の芸術活動を先導していた二人の、時代を把握し未来を見据えようとする共通意識が具現化したものでした。マイアー=グレーフェはビングと同じく芸術の未来に道を示したかったからこそ、この論考に同じタイトルを与えたに違いありません。しかし、1910年代に台頭した前衛芸術は、19世紀後半のフランス美術を擁護したマイアー=グレーフェにとって、芸術を破壊する行為にしか見えなかったし、第一次世界大戦へと向かう保守的な時代精神が、彼を悲観的な考えへと駆り立てました。結果、マイアー=グレーフェはビングとは異なり、この論考において未来に希望を見いだすことはできなかったのです。

図版1 ビング

図版2 マイアー=グレーフェ