高橋千佳『人はなぜ言語を学ぶのか~2人の日本人多言語学習者の記録~』
本書は、9年に渡るインタビュー調査を基に、2人の日本人学習者の多言語学習動機づけの変遷を明らかにしたものです。英語が事実上の共通語として機能し、国内外の多くの学習者が英語以外の言語の学習に意味を見出せないという時代に、敢えて複数の言語を学んだ2人の成長、葛藤、思考の過程を、特に学習動機づけに着目して描きました。今回、令和5年度法文学部戦略経費の助成を得て、出版されました。
本書の出発点は、2012年に遡ります。当時、博士論文執筆中だった私は、NHKラジオ講座での英語学習の継続性と学習動機づけの関係を明らかにすべく、高校2年生だった13名を対象としたインタビュー調査を行いました。本研究の協力者である2人に会ったのは、そのことがきっかけです。その後、縁あって、本研究はこの2人を対象としたケーススタディとして2021年3月まで続き、高校、大学、大学院、社会人時代と、9年間の2人の多言語学習の様子や学習動機づけの変遷、また、言語や言語学習に対する見方を探ることができました。
研究を通して見えてきた重要な動機づけ要因は、先行研究でもあまり報告がない内容でした。9年の間、もちろん2人の多言語(英語プラス1言語というわけでもなく、英語の他にも複数の言語を学んだという稀有な例です)の学習動機づけには変化があり、学習がうまく進まない時期もありましたが、全体として、2人の姿勢は非常に前向きであり、多言語を学ぶ人ならではの視点が浮き彫りになりました。具体的には、2人にとって言語とは、違う言語や違う文化の人をつなぐ、本質的に人間的なものであり、言語学習は、他の人との距離を縮めるものでした。これまでの特に海外の研究においては、言語と経済力を結びつけて捉え、経済力に直結する英語のみを重視し、英語以外の言語学習では意欲が低い例が多く報告されてきました。しかし、それとは対照的に、9年の時を経て2人がたどり着いたのは、母語の役割を重視し、異なる言語、異なる文化の人間を理解しようとする時には、その人の言語を学んでその人の生の声を聴く必要がある、また、そのようにしたいという姿勢であり、それが長期的な多言語学習の原動力になっていました。このような彼らにとっては、英語が共通語として機能していても、それで事足りる訳ではないし、英語は「学んでいる言語の1つ」に過ぎないということになります。もちろん、このような姿勢は、言語学習の実利的な側面を否定するものではありませんが、特に多言語を学習する際、2人のような考え方は非常に重要な長期的動機づけになると考えられます。さらに、言語学習は、何も高校や大学など、教育機関にいる時のみに行うものではなく、一生続いていく、続けていけるものであるという捉え方も貴重な内容でした。協力者の1人は、言語学習を「終わりのない道」と表現してくれました。
本研究の内容は、元々、純粋な研究書として、2022年にイギリスのMultilingual Mattersという出版社から出版した単著(“Motivation to Learn Multiple Languages in Japan: A Longitudinal Perspective”)で報告しました。しかし、出版後、2人の貴重なインタビュー内容や研究で得られた視点は、研究者だけでなく、言語学習に興味があったり、あるいは言語学習で苦しんだりしている日本の学習者にこそ励みになるのではないかと考えるようになりました。そこで今回は、一般の読者も対象として、なるべく平易な表現を使いながら、また、そのような方々にとっての今後の言語学習の糧になるようにという視点を持ちながら、日本語で執筆しました。ですので、本書は、英語版の「翻訳書」ではなく、新しい視点で、私の母語である日本語で書いた、新しい本ということになります。
本書のもう1つの側面は、研究に協力を続けてくれた2人のうちの1人の、研究終了後の突然の死に向き合おうとした私自身の記録でもあるということです。9年という長い期間の研究だったこともあり、ある日突然、研究協力者の若者が亡くなってしまったことで、私は大きな衝撃を受け、心理的に苦しむ時期が続きました。研究者として自分ができることは何なのか、9年という長い期間、研究に協力し続けてくれた恩をどのように返すことができるのか、今後、自分はどのような研究を進めていけばよいのかなど、様々なことを考えました。その内容は、最近、私の分野でも取り上げられることが増えてきた、研究者の「省察性」と関係しており、この「省察性」についても、1章を割いて本書で新たに取り上げました。
この本を手に取ってくれた人が、可能であれば、長い言語学習の道のりの折々、2人のインタビューを何度も読み返していただけること、そして本書の内容が、その時その時の言語学習の糧となることを願っています。
※高橋教員のその他の研究業績についてはresearchmapをご参照ください。
https://researchmap.jp/7000014988