梶原克彦「第一次世界大戦における日本の敵国外国人処遇に関する政治外交史的考察」(基盤研究(C)、研究代表者、2024~2028年度)

第一次世界大戦(以下、大戦と略記)では捕虜は600~800万人、民間人抑留者は40~50万人と未曾有の規模で発生しており、その処遇状況や抑留経験も大戦前の様子とは異なるものだった。こうした大戦中の捕虜・民間人抑留者の発生は、そのほとんどが主戦場であった欧州やその植民地を中心としていたが、日本でも規模は圧倒的に少なかったが5000名程のドイツ兵・オーストリア=ハンガリー兵捕虜を収容していた。

ところで戦争捕虜(Prisoner of War)と民間人抑留者(Civilian Internee)は同列に「捕虜」として論じられたり、混同されたりすることもあるが、法的には別個の存在である。こうした捕虜と民間人の処遇の違いに鑑みて、大戦の敵国民間人に注目した研究は1990年代より蓄積され、近年もM・シュティベらを中心に欧州の事例について研究が重ねられているが、在日敵国民間人処遇に関する研究は「忘れられた」状態となっている。対照的に、大戦中の独墺兵捕虜は研究だけでなく、様々な機会に言及されている。その際、大戦中の日本の捕虜政策はその国際法遵守の姿勢と人道的な措置で同時代の例外と目され、独墺兵に対する厚遇の強調は時に捕虜処遇の問題を戦争の文脈から切り離し、国際交流のそれで語るほどであった。しかし捕虜から敵国民間人の処遇に目を転じれば、当時の日本が文明的・人種的に「上位」のヨーロッパ出身者であっても優遇した訳ではないことが分かる。僅かながらも先行研究が明らかにしたのは、むしろ、ドイツ人ら敵国民間人の処遇は大戦中に次第に厳しさを増していき、入国拒否はもちろんのこと、大戦前から居住していた者の逮捕・拘禁から国外追放に至る措置が採られるようになっていったということである。

大戦時の日本による敵国人の処遇は、寛大であったとされる捕虜政策との間にギャップが存在することを窺わせる。が、大戦の民間人抑留者をめぐり近年示されている理解に従えば、捕虜政策と民間人抑留政策は形式面での違いを持つ一方で、敵国外国人に対する共通の方針に包摂されている。両者を一体として捉える必要性は、例えば、捕虜については就労が国際法上認められているため、民間人抑留者を捕虜として扱うことで労役を強いた例からも首肯できるものである。翻って、日本の場合でも非戦闘員を捕虜として処遇した事例は存在しており、菓子職人カール・ユーハイムは非戦闘員であったが占領地の青島から捕虜として大阪収容所へ移送され、のち似島収容所(広島)に収容された。日本は大戦中に敵国民間人を対象とした収容所を設置していないが、この事例からは、捕虜収容所がその代替施設となっていた様子が察せられる。他にも、青島憲兵隊は、元青島民政長官だったオットー・ギュンターから山東鉄道関係の情報を引き出すために同人を三年に亘り監房留置所に拘禁したのち、ドイツからの抗議をかわすために「後付けで」同人を捕虜と取り扱うことに決定し坂東捕虜収容所に移送した。

日本による独墺兵捕虜の処遇については、多くの先行研究がさまざまな側面を明らかにしてきたが、厚遇や国際交流のエピソードが強調されるものの、捕虜政策自体で完結した考察となっているため、敵国民間人への視点が欠如している。それゆえ、収容された者に対する処遇が国際法に準拠していた否かは問われるが、そもそも収容プロセスが国際法に準拠したものであったのか、この点への問いが示されておらず、この捕虜政策が独墺側の捕虜・民間人抑留へ与えた影響にも関心が払われてこなかった。また独墺側での日本人の抑留については、先行研究の数自体は少ないものの、厳しい処遇の様子を解明してきた。しかしこの日本人への処遇が、日本側の捕虜・民間人抑留に与えた影響は検討されておらず、そもそも在日独墺民間人への処遇自体が明らかになってはいなかった。本宮(2015)の横浜在留ドイツ人に関する先駆的な研究があったが、全国及び占領地に関する具体的様子にはなお検討の余地があった。そこで、拙論(2021)は手始めとして、日本側では独墺による日本人酷遇への報復措置として外交官の逮捕・拘禁の検討、占領地からの強制移住および150名ほどの非戦闘員や文官の逮捕・拘禁、などの措置が採られていたことを明らかにした。これは捕虜と住民との国際交流などで描かれる友好的な状況とは対照的であったが、大戦の経過と共に対独感情が悪化したことに鑑みれば、さほど驚くには当たらず、むしろ寛大な捕虜処遇のほうが奇異に感じられた。そこで、日本による敵国民間人処遇の実態をより詳細に検討するとともに、敵国人の処遇でギャップが生じた理由、民間人処遇と捕虜処遇との関係を明らかにしようと思い立った。

以上の経緯から、本研究では捕虜処遇と敵国民間人処遇との密接な関係という視点に立ち、従来その詳細が不明であった第一次世界大戦時の日本による敵国民間人の処遇を検討していこうとするものである。これによって、逮捕、拘禁、追放、捕虜としての抑留、という措置に関してその対象者の人数すら把握されていなかった敵国民間人に対する処遇の詳細を明らかにし、「忘却された」歴史の一片を明らかにすると同時に、敵国民間人の処遇と捕虜政策との一体性を理解する。これはひいては、明治・大正期の捕虜政策の在り方を再検討することにもなるだろう。

【参考文献】
・本宮一男(2015)「第一次世界大戦と横浜在留ドイツ人」(横浜外国人社会研究会他『横浜と外国人社会』所収)
・梶原克彦 (2021)「第一次世界大戦下の日本におけるドイツ人処遇問題」(『愛媛法学会雑誌』)。

新しくなったドイツ連邦公文書館(Berlin-Lichterfelde)

  国外追放を避けるべく在神戸ドイツ人がドイツのメディアへ働きかけを行った手紙
(出所:Bundesarchiv:R901/ 83622)

 

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https://researchmap.jp/7000014818