た行

高橋 千佳准教授

たかはし ちか / TAKAHASHI Chika

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専門分野:応用英語学

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教員からのメッセージ
 皆さんは、「何年も英語を勉強しているのに、一向にできるようにならないなあ」と感じたことはありませんか。「英語は中学校・高校と6年間も勉強したのに、全然しゃべれない」という事を、英語学習においてよく耳にします。でも、6年間で実際に勉強に費やした時間は、合計するとどれくらいになるでしょうか。勉強していた間、一生懸命だったでしょうか。それとも、嫌々だったでしょうか。
 英語をはじめ、母語以外の第二言語がある程度の能力に達するには、その言語を聞いたり読んだりする、いわゆるインプットの質と量、両方が必要だと言われています。また、ただ聞いたり読んだりするだけではなくて、会話でやりとりをすることが必要だという人もいます。さらに、同じようなインプットにふれても、本人の学習意欲の違いで、習熟度の差が生まれるとも言われます。私が興味があるのは、このような英語習得・学習にまつわる様々な要因で、中でも特に、学習者の間で習熟度の違いを引き起こす要因を主な研究対象にしています。
 英語に限らず、第二言語の学習について研究する分野は「第二言語習得理論」と呼ばれ、言語学や心理学などの知見を取り入れながら、「人はどのようにして母語以外の言語を獲得するのか」という問いに答えようとしています。授業では、この第二言語習得理論の概要を理解するだけではなく、皆さんのこれまでの英語学習の過程を振り返ったり、今後の学習につなげたり、また人によっては、今後英語を教えるのに大切なことを一緒に考えたりしています。英語の習得過程を研究の対象にすることによって、各々がよりよい英語との付き合い方ができるようになればと考えています。

高橋 弘臣教授

たかはし ひろおみ / TAKAHASHI Hiroomi

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専門分野:アジア史

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教員からのメッセージ
 中国は長い歴史を持つ国であり,現在の中国人のものの考え方や行動のパターンも,そうした歴史の中でつちかわれた思想や国家・社会体制との関係を抜きにしては語れません。現在の中国を理解し,中国と上手くおつきあいするためにも,今一度中国の歴史を振り返ってみる必要があると言えましょう。
 中国の歴史は難しい漢字が頻出する上に,王朝が交代を繰り返しているだけで発展の速度が鈍く,面白くないと考えている人がいるかもしれません。確かに産業革命以降,中国は欧米諸国の急速な発展に遅れをとりました。しかしそれ以前,特に宋~元代の中国は,いろいろな面において,世界で最も進んだ国であったと云っても決して過言ではないでしょう。中国の歴史は決してつまらないものではなく,奥深く,スリルに富んだものであると私は思います。
 中国史,特に前近代史を研究するには,漢文史料の正確な読解力が要求されます。現在の高校の漢文教育の実態からすると,漢文史料を一通り読みこなせるようになるには,それなりの苦労が伴うかもしれません。しかし,何と言っても我々が普段使っているのと同じ漢字で書かれているわけですし,「習うより慣れろ」という言葉もあります。最初はさっぱりわからなくとも,眺めているうちに何となく読めるようになってくるもので,心配はいりません。中国史の研究は日本史・西洋史と比べると立ち遅れが目立ち,基本的な事実関係すら未確定な部分が多く,新しい方法論や分析の視角を導入してみる余地も多々残されていると思います。皆さんの積極果敢なチャレンジを期待します。

高橋 勇介准教授

たかはし ゆうすけ / TAKAHASHI Yusuke

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専門分野:財政学

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教員からのメッセージ
 私は、財政学を中心に、労働問題や社会保障問題など様々なテーマについて研究しています。現在の日本では、財政赤字の問題が取りだたされていますが、その背景には、少子高齢化や公債費の累積など様々や要因があります。我々にとっては、消費増税などより身近な問題となっているのではないでしょうか。さらに、非正規雇用の若者が増えると経済的に結婚できない、子供を育てられないといった問題が起き、経済全体に負の連鎖が生じます。
私の講義では、財政学を学ぶ上で、単に税制や財政調整について議論するのではなく、少子高齢化が問題となる中で、どのような育児サービスを提供していくべきか、その財源はどうすべきかといった問題を積極的に考えていきます。スウェーデンやデンマークといった北欧の国では、高福祉・高負担、すなわち高い税率の一方で、社会保障や福祉サービスにお金をかけるといった独自の政策が導入されています。特に、財政均衡について考えるだけではなく、財政を「未来への投資」と考えることも大切です。特に、教育にお金をかけることや、非正規雇用をはじめとした、労働市場において不利な条件にある人々に対し人的資本投資を行っていくこと、育児ができやすいように育児サービスや給付を充実させていくことなど、私の講義では「未来への投資」としての財政について学んでいきます。

田川 靖紘准教授

たがわ やすひろ / TAGAWA Yasuhiro

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専門分野:刑法

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教員からのメッセージ
 高校生の皆さんは、「法学(法律学)」と言われても〝ピン″とこない人の方が多いかもしれません。条文の暗記が大変そうだな、というイメージがあるかもしれませんが、法学は、条文の丸暗記をする学問ではありません。私は法学の中でも刑法を研究していますが、ここでは、刑法という学問が何を考える学問なのか(大学では、考え方を学ぶとともに、どう解決するかを「自分で」考えなければいけません)、具体的な例(具体的事実の錯誤)を使ってみていきましょう。
 刑法には、故意犯(こいはん)と過失犯(かしつはん)という概念があります。とりあえず、故意は、「わざと」結果を発生させた、過失は、「うっかり」結果を発生させてしまった、くらいに考えてください。さて、「甲が、Aを殺害するつもりでけん銃を発射したが、その弾丸がAの身体を貫通してAを殺害するとともに、Aの背後にいて甲からは認識できなかったBをも殺害してしまった場合」について考えてみましょう。
 甲の行為が、Aについては「わざと」であることに問題はなさそうです。では、Bについてはどうでしょうか。
① 甲は、Bの存在を認識できていないのだから、「わざと」殺したのではなく、「うっかり」死なせてしまったと考える。
② 殺人罪の場合「およそ人を殺すな」という規範を有しているのであり、甲は「人を殺すつもりで」、「人を殺した」と考える。すなわち、A・B両名を「わざと」殺したと考える(最判昭和53・7・28刑集32巻5号1068頁)。
 さて、皆さんは①と②のどちらがより妥当だと考えるでしょうか。そして、それは「なぜ」でしょうか。この「なぜ」まで答えられることが重要です。そして、そのヒントは、刑法の授業にあるのです。愛媛大学の教室で、皆さんにお会いできるのを楽しみにしています。

田島 篤史准教授

たじま あつし / Tajima Atsushi

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専門分野:ドイツ言語文化

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教員からのメッセージ
 私は「魔女」について研究しています。魔女と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?箒にまたがり空を飛ぶ、意地悪なお婆さん。とんがり帽子に鉤鼻で、魔法を使って悪さする、といったイメージが一般的でしょうか。あるいはアニメや漫画では、若くてかわいい少女の姿をしているものも多くみられますね。こうした魔女たちは、現代の日本ではサブカルチャーの中でしかなかなかお目にかかれません。しかし今から数百年前のヨーロッパ、とりわけドイツ語圏では、多くの罪なき人々が「魔女」だとされて裁判にかけられ、処刑されました。
グローバル化が進んだ現代において、異文化と触れ合う機会は数多くあります。これら異文化を排他的に捉えることは、お互いにとって生産的な交流をもたらしはしないでしょう。私の研究テーマで言えば、「魔女や悪魔の存在を信じていた昔の人たちはバカだな」という視点から問題に取り組んでしまうと、いつまでたっても事象の本質的な部分が見えてきません。中・近世のヨーロッパといえば、我々が生活する現代の日本とは、時間的にも空間的にも大きな隔たりがあるからです。つまり言語・宗教・政治・法律・学問・慣習・気候・常識etc.ありとあらゆる点で異なる社会だからです。自己とは異なる他者について、可能な限りありのままを受け入れようとすることで、はじめて異文化理解のスタート地点に立てると思います。そもそも異なる文化間には、優劣など存在しないのですから。また異文化理解に努めることは、自文化についての理解を深めることにもつながります。異文化と触れ合ううちに、これまで当たり前だと思っていたことが、狭い世界の中だけの常識だった、ということに気づくことがあるでしょう。こうしたことも異文化を研究対象とすることの魅力の一つです。
ドイツ言語文化専攻では、主にドイツ語圏における事象を扱います。皆さんも関心のある対象に触れ、まずはそれをありのまま受け入れてみてください。きっと新たな発見があると思います。

田中 尚子教授

たなか なおこ / TANAKA Naoko

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専門分野:日本文学

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教員からのメッセージ
 ゲームや漫画,映画等を通じて日本でも人気の高い三国志ですが,そもそもいつ頃から人気だったのでしょうか。実は,すでに平安時代には日本に入ってきていることが確認されるものの,江戸時代まではその認知度はかなり低く,今のような状況になるまでにはかなりの歳月を要したようなのです。こういった日本における三国志享受の様相の通史的把握が,私の主たる研究テーマの1つです。これが日本文学なの?と疑問に思う人もいるかもしれませんね。しかし,日本の作品内で少しずつ引用されるなどして,長い時間をかけて三国志言説が徐々に浸透していく背景には,その時々の日本の文化的・社会的事情が存在するのであって,そこを明らかにしていくのは間違いなく日本文学の領域なのです。日本文学の領域の広さ,自由さを皆さんにもわかってもらいたいところです。
 最近,私は室町から江戸時代にかけての学者たちの学問事情についての研究も行っています。その学者たちの中でも特に敬愛する存在として,清原宣賢という人物がいます。家学である明経道を大成したのみならず,文学,神道,漢詩といった家学以外の領域においても講義や注釈書作成を積極的に行うなど,数々の功績を上げた室町期の学者です。彼の関心と知識の幅の広さに感服したのはもちろんですが,『蒙求聴塵』という注釈書で「木牛流馬」なる語について解説する際,諸文献を用いて丁寧に考察しつつも,「コレホド念比ニシタレドモ,コナタニハエ心得ヌニテ也」と結論付けてしまえるその潔さにも,心惹かれたのでした。学問に取り組む上では,無責任な情報を発信することがあってはならず,結果,時にわからないと正直に認めることとて必要になります。しかし,それは最善を尽くしてこそ許されるのであって,その過程を省略して安易に「わからない」としてはいけないのです。これは研究に限られるものではなく,人の生き方全般に当てはまるのではないでしょうか。皆さんにも,宣賢のように,色々な事柄に関心を持ち,そしてそれらに真摯に向き合っていってもらえれば,と思います。

池 貞姫教授

ち ぢょんひ / CHI Jong Hi

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専門分野:朝鮮言語文化

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教員からのメッセージ
 近年,日本と朝鮮半島との関係がダイナミックに変化し,その関係がますます深まるにつれて,お隣の文化について関心を持つ人がここ愛媛でもグンと増え,朝鮮語学習人口も飛躍的に増大しました。松山でも韓国直行便が飛ぶようになって十数年が経ち,今では韓国人観光客が松山の地を多数訪れ,多くの韓国人留学生たちが愛大のキャンパスでも学んでいます。また,松山には四国で唯一の朝鮮学校が存在し,在日韓国・朝鮮人の子供たちが学んでいます。私も日本で生まれ育った在日三世で,日本と朝鮮半島の狭間で二つの文化に揉まれて様々なことを感じながら,生きてきました。授業では,朝鮮語の話題を初めとして,朝鮮半島の文化的背景について講義をし,意見交換をしていきます。朝鮮語は,日本語と,語順や漢字語彙などにおいて高い類似性を見せながらも,興味深い相違点が多々見られます。また,日本と朝鮮半島は同じ東アジアに属し,多くの共通項も持ちつつも,異なりを見せている「似ていて異なる」存在同士だといえるでしょう。一見似ていると見えるお隣の言葉や文化を鏡合わせすることによって,それぞれの国の言葉や文化もその姿が浮き彫りになってくるのだと思います。お隣の国のことを勉強しながら,自分の国のことを見つめ直してみませんか。そして,近い存在同士,お互いのことを理解しあってよりよい関係を築いていきませんか。

寺尾 勝行准教授

てらお かつゆき / TERAO Katsuyuki

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専門分野:英米文学

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教員からのメッセージ
 インターネットが空気のように当たり前のものとなり,iPodなどの携帯プレーヤーによってそのネット上の音声・画像ファイルをハンカチかチリガミのように気軽に持ち運べるようになった現在,生の英語に接する機会や,接することのできる素材の種類は二昔とは(と言わず,一昔と比べてさえ)比較にならないくらい充実・拡大しています。外国語(英語)習得のためにこれを利用しない手はありません。
 ただし単なる会話の偏重では思わぬ落とし穴が待っています。おしゃべりは楽しそうにかわしていたのに,中身のある話となると全く通じていなかった,では困ります。大学生ならぜひとも,読み・書く力を,聞き・話す力と並行させて身につけ,より深い部分での価値観や感動の共有なり,意見の交換を行いたいものです。
 そのために文学作品を通して英語を学ぶ,あるいは英語という言葉を通して文学にアプローチするということを勧めたいと思います。文学作品の英語の特徴の一つは何と言ってもその種類の豊かさです。取り扱われる話題(テーマ)が哲学,政治,経済,歴史から日常生活の機微,さらには推理小説,SF,ファンタジーに到るまで多様であり,またスタイル(文体)もそれに応じて思索的なもの,(いわゆる)論理的なもの,事務的なもの,エッセイ的なもの,情感豊かなもの・・・等々バラエティに富んでいます。あなたはそれらの英語に触れることを通して,単にビジネス英語やニュース英語を通してのみ得られるものよりはるかに広く,多様な世界のあり方(そして世界の感じとり方)を実感することができるでしょう。そしてよりありがたいことに,そのような体験を重ねていく中で,言葉そのものに対する感覚が磨かれてゆくことでしょう。
 多くの人が言葉を鍛え,言葉を通して思索を深め,また,他者との実り豊かなつながりを築く能力を自らの中に育て上げることを願って止みません。